2026年3月16日、株式会社荏原製作所と、新たに設立された一般社団法人「匠和会」は、日本の製造現場に眠る「暗黙知」を、AIエージェントを用いて形式知化・継承・進化させる新たな取り組みを発表しました 。
激化するグローバルAI競争の中で、日本が世界に誇る「匠の技」をいかにデジタル資産へと変換し、次世代へ繋いでいくのか。両者による画期的な「知識駆動型DXプロジェクト」の全容をお届けします 。
深刻化する「知の喪失」と、匠和会の設立
現在、日本の製造業は「労働力人口の大幅な減少」と「技術・知識の若手への継承不安」という深刻な課題に直面しています 。経済産業省の「2025年版ものづくり白書」によれば、能力開発における最大の問題点として、実に65.9%の企業が「指導する人材が不足している」と回答しました 。
こうした背景から、日本の現場に宿る「暗黙知」をAIと融合させ、人とAIが共生する社会を目指す産学連携組織として、一般社団法人「匠和会」が正式に設立されました(2025年7月28日設立、2026年3月16日発表)。
- 代表理事: 栗原 聡 氏(慶應義塾大学教授 / 人工知能学会会長)
- 理事: 佐藤 知正 氏(東京大学名誉教授)
- 理事: 梅田 靖 氏(東京大学教授)
匠和会は、企業間の壁を越えてデータと知識を共有し、単独では解明できない暗黙知をAIとともに解明することで、日本全体の知の活用レベルを底上げすることを目指しています 。
「データ駆動」から「知識駆動(Knowledge-Driven)」へ
荏原製作所が2026年3月16日から本格始動させたのが「知識駆動型DXプロジェクト」です 。これは、単なるデータ活用による業務効率化ではなく、組織が持つ「知識」そのものを競争力の源泉と位置づける取り組みです 。
その中核となるのが、東京大学の梅田靖教授が提唱する「デジタルトリプレット(D3)」という概念です 。 従来の「デジタルツイン」が物理空間とデジタル空間の2層構造であるのに対し、デジタルトリプレットはそこに「知識空間(形式知)」を加えた3層構造を持っています 。これにより、現場の暗黙知をデジタルに繋げ、AIが自律的に推論・継承する人間中心のDXを実現します。
荏原製作所が誇る2つの独自システム
本プロジェクトでは、2つの画期的なシステムを「知識」を軸に融合させています 。
- EBARA 開発ナビ
設計・開発の思考プロセスを構造化し、暗黙知を含む知識を段階的に「見える化」するシステムです 。論理、根拠、アドバイス、イレギュラー対処などを体系的に記述し、手戻りを最小化します 。
- Ebara Brain(自律分散型AIエージェント基盤)
外部通信を必要としないオンプレミス型のAI基盤で、社内GPUクラスタ上で安全に動作します 。以下の主要エージェントが連携します 。
- 形式知化エージェント: 現場の「知」を抽出しデータベース化 。
- ヒアリングエージェント: 対話を通じて知識の精度を向上 。
- エキスパートエージェント: 専門性の高い業務を支援し、ユーザーと共に進化 。
- パーソナルエージェント: 個人のデジタル分身として知識空間を拡張 。
実証実験(PoC)での圧倒的な成果
マンションなどの「給水ユニット」を対象とした概念実証では、驚異的な成果が確認されました 。
- 設計プロセスの85%を自動生成: 従来、人が時間をかけて整理していたプロセスを形式知化エージェントが生成 。
- 関係性予測精度83%: 生成AIを活用し、設計諸元間の関係性を高精度で予測 。
これにより、AIと人間が協働することで、属人的なノウハウを組織全体の知的資産へと転換できることが証明されました 。
2028年に向けた「知識経済圏」の創出ロードマップ
荏原製作所は、2028年に向けて本プロジェクトを段階的に発展させる計画を発表しました 。
開発担当者からのコメント
荏原製作所 技監 後藤 彰 氏 「『熱と誠』の創業の精神のもと、荏原製作所は100年以上にわたって現場の知を積み上げてきました。本プロジェクトは、それら蓄積された知を次の100年へ受け渡すための活動です。人とAIが共創することで、持続可能な成長へとつながると確信しています。」
荏原製作所 プロジェクトマネージャー 王 宇坤 氏 「単なるAIツールの導入を目指すものではありません。荏原製作所の知識基盤そのものを再構築し、AIと人が共に進化する新たな『知識経済圏』を創出することが究極の目標です。日本の製造業のDXをリードしていきます。」
「背中を見て学べ」という職人文化が限界を迎える中 、現場の「暗黙知」である技術や知見をどう残すかは日本製造業の切実な課題です。
今回の発表で最も印象的だったのは、AIを『単なる効率化の道具』ではなく、『共に考えヒントを提示するパートナー』として位置づけている点です。現場で働く社員にAIが伴走しながら、熟練者の思考プロセスを学習して多くのノウハウを形式知化することで、それをもとに「ここは大丈夫ですか」とAIが先回りして提案してくれる。このような、人がAIに置き換わるという対立構造でなく、人とAIが寄り添ってモノづくりの現場を進化させるという、テクノロジーの未来の在り方を示しているものだと感じられました。
この労働者不足と技術伝承を両立する「知識駆動型DX」が多くの企業に実装されるようになった暁には、日本製造業が世界を再びリードするという未来も見えてくるのではないでしょうか。
■登壇者プロフィール
栗原 聡(慶應義塾大学 教授)
慶應義塾大学理工学部 教授。人工知能学会 会長。慶應義塾大学共生知能創発社会研究センター センター長。慶應義塾大学大学院理工学研究科修了。博士(工学)。
NTT基礎研究所、大阪大学、電気通信大学を経て、2018年より現職。科学技術振興機構(JST)さきがけ「社会変革基盤」領域 研究総括。オムロン サイニックエックス 社外取締役、日本DX人材アセスメント機構 理事長。総務省情報通信法学研究会 構成員など。マルチエージェント、複雑ネットワーク科学、計算社会科学などの研究に従事。著書『AI兵器と未来社会キラーロボットの正体』(朝日新書)、共編著『人工知能学大事典』(共立出版、2017)など多数。
王 宇坤(荏原製作所 「知識駆動型DXプロジェクト」統括責任者)
荏原製作所「知識駆動型DXプロジェクト」統括責任者、工学博士。AIテック分野、流体情報学分野の専門家として、製造業、官公庁を中心に大手鉄鋼メーカ、大手サブコン、コンサルファームの研究開発、新規事業創出などのデジタル変革プロジェクトを主導。荏原製作所ではサイバーフィジカルストラテジー推進部(Cyber Physical Strategy)を立ち上げ、製造業に眠る暗黙知をAIが理解し再利用できる知識資産へと転換する自律分散型AIエージェント基盤「Ebara Brain」のプロジェクト責任者を務める。一般社団法人「匠和会」の立ち上げに参加。暗黙知を世代・組織を超えて循環させる“知の共創エコシステム”の形成を目指し、「知の社会実装」を推進している。
後藤 彰(荏原製作所 技監)
荏原製作所 技監。工学博士。荏原総合研究所取締役、荏原製作所理事、同 風水力機械カンパニー開発統括部長を経て、2017年より現職。流体機械分野の研究者として長年にわたり活動し、日本機械学会の理事・監事、ターボ機械協会会長、可視化情報学会会長などを歴任。流体機械のシミュレーション技術、数値最適化技術、機械学習を活用した流体最適設計技術の開発と産業応用を牽引した。2019年に米国機械学会から日本人初のHenry R. Worthington Medalを受賞。デジタルトリプレットの概念を用いた設計開発のナレッジデータベース構築に取り組み、一般社団法人「匠和会」の立ち上げに参加。「知識駆動型DXプロジェクト」のアドバイザー。

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